ザ・リアル・センス・オブ・ワンダー:『ヤノマミ(書籍)』

(前回の続きです)


一つ、腑に落ちないことがあった。ドキュメンタリーの中で、ヤノマミ族はビーチサンダルを履いていた。男は綿や化学繊維でできた短パンを履き、鉄製のナイフで獲物を解体し、金属鍋で調理していた。
勿論、ゴム工場や製鉄所がジャングルの中にあるわけではない。


ヤノマミ
国分 拓
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ディレクターは同じ取材をもとにしたルポルタージュも出しているのだが、これを読んで理由が分かった。


以下、本の要約。
ヤノマミ族が住んでいる場所はブラジルの北西部にある先住民保護区だ。面積は北海道のおよそ1.4倍。そこに、ドキュメンタリーで登場したようなシャボノと呼ばれる集落が200〜300ほどある。集落の移動が頻繁かつ広範囲にわたるため、正確な数は判明していない。「文明人」が政府の許可無しで入ることは禁じられている。
保護区が制定されたのは1991年、僅か20年前だ。保護区に眠る金やダイヤといった鉱物資源、農場用地などの利権を巡って、開発業者や地方政府が猛然と反対したからだ。おまけにブラジルは1985年まで軍事政権だった。軍事政権はジャングルをぶちぬく高速道路と軍事基地を建設し、大勢の工夫や鉱夫がジャングルに入り込んだ。ヤノマミはジャングルの奥地に追い立てられ、時に虐殺されたが、最もヤノマミを追い詰めたのは文明人の持ち込んだ病原菌で、免疫を持たないヤノマミ/が沢山死んだ。
保護区が制定されたのは、西欧からの支持をとりつけたリベラルな大統領とリベラルな法務大臣が議会や地方の反対を押し切って強硬採決したからだという。


だが、それはヤノマミにとって文明との接触が無くなったことを意味しない。FUNASA(ブラジル国立保険財団)やFUNAI(ブラジル国立先住民保護財団)といった先住民保護を担当する政府期間が集落から歩いて数キロのところに保健所や駐在所を作り、ヤノマミが望めば医療や物資を提供した。サンダルや短パンや鍋はそのような経路で入ってきたものらしい。保護区の中でも、早い時期からキリスト教の伝導団がやってきたような地域はTシャツにパンツ姿が普通で、ポルトガル語スペイン語を流暢に話すヤノマミもいるらしい。


取材斑が訪れた集落――ワトリキも、かなり以前から文明社会との接触があった。しかし、それでも独自の文化を失わなかったのは族長のシャボリ・バタの存在感が大きかったからだと本書には書いてある。それともう一つ、ヤノマミが自身の権利を守るために作った渉外組織のプレジゼンチ(大統領)であるダビ・コペナウの出身集落であるというのが大きいのかもしれない。

現在、ダビは一年の殆どをヤノマミのプレジゼンチとしてボアビスタやブラジリアで過ごしている。僕たちは幾度となくダビと会い言葉を交わしたが、確かに、彼は知的で思慮深く、説得力と統率力があった。そして、何よりも、ブラジル政府を向こうに回して困難な交渉を続けて来た者が持つ、政治家としての凄みがあった。


ヤノマミの保護区やヤノマミ自身による渉外組織ができても、文明と無縁でいられるというわけではない。
最も影響力が大きいものは「医療」だという。

例えば、風邪をひいてしまって高熱に苦しんでいたヤノマミに解熱剤が処方されたとする。熱の引き方は劇的だったに違いない。(中略)その時、彼らは現代医療に何を感じるのだろう。また、それまで治療に携わってきたシャーマニズムはどう変わってしまうのだろう。彼らの死生観であり、宇宙観の一部である精霊による治療が崩壊してしまった時、彼らの暮らしや生き方はどうなってしまうのだろう。


また、ワトリキの長老たちはNGOの申し出もあり、将来の指導者候補を文明社会に留学させている。自分達の権利を主張し、独自の文化や風習を守る為には文明社会と交渉できる者が必要だからだ。
だが、それがワトリキ社会を確実に変えてゆく。

サッカーボールは前回の帰郷でワトリキに初めてもたらされた。アンセルモがルールを教え、すぐにサッカーが大流行した。若者たちは狩りにも行かず、畑仕事も手伝わず、サッカーばかりするようになった。大人たちは顔を顰めた。若者の一人が切り株に躓き足を捻挫するに及んで、長老の一人が「サッカーはやめるべきだ」とヘレアムゥ(集会のようなもの)で言った。すると、アンセルモが「サッカーのどこが悪いのだ!」とその場で反論した。長老に面と向かって反論することは、それまでのヤノマミ社会にはないことだった。
アンセルモの反論は、いわゆる民主教育の賜物と言えるかもしれない。これは諍いではなく議論だ。本人はそう思ったのだろう。だが、アンセルモの反論を聞いていた別の長老が後日、吐き捨てるように言った。
「あいつは、身体はヤノマミでも、心はブランコ(白人)だ」

留学生に選ばれるだけあって、アンセルモは頭もよく、人の意見もよく聞き、人望(特に若手の)が厚く、集団を率いる統率力にも秀でていた。NGOが次世代のリーダーとして目をつけ、町の学校に送ったのも分かるような気がした。彼の聡明さがあれば、ブラジル社会に取り込まれることなく、ヤノマミの自立を守り続けることができるのかもしれない。
だが、一つだけ、どうしても気になることがあった。アンセルモは自分たちの家族のために、シャボノに隣接した場所にタピリ(小屋)を持っていた。タピリの中はブラジル人の住居(特にアマゾン地区の住居)とさほど変わらなかった。テーブルがあり、ラジカセもあり、机にはボアビスタで使っていたと思われる携帯電話が置かれていた(もちろん、ワトリキでは「圏外」となり使えないが)。
一番驚いたのは、戸に大きな錠前がついていたことだった。どうして鍵をかけるのかとアンセルモに聞くと、「盗まれることを心配しているわけではない。ただ、大切なものを触られて壊されるのが嫌なのだ」と答えた。
ワトリキの中で、殆どここだけに、確固たる私有の概念があった。


他にも、シャボリで唯一コンドームを所持しているヤノマミ、保健所でバイトして小銭を溜め込んでいるヤノマミ、現代医療で命を救われたヤノマミ、シャボノでの初めての映画上映のエピソード等々、文明と原始社会の接触、あるいはコンフリクトに関する興味深い話が本書にはいっぱいだ。


以上のようなエピソードを読んでいると、開国とか幕末近辺の日本のことが頭に浮かんで仕方が無かった。何百年も時間が経つと、アンセルモ他の留学経験のある若者たちは、ワトリキという集落の坂本竜馬として認識されるのかもしれない。


重要なのは、単に医療技術や物資が入ってくることではない。それによって人々の価値観が不可逆的に変わることなのだ。しかも、それが良いことなのか、悪いことなのか、地球上の誰にも判断できない。だって、開国や、大正デモクラシーや、天皇人間宣言や、平和憲法制定といった近代化・文明化があるかららこそ、今の自分たちがあるのだから。


ヤノマミの居住区が保護区に指定された時、FUNAI総帥のシドニーエスロ氏はこう語っていたという。

「原初の世界に生きる先住民にとって最も不幸なことは、私たちと接触してしまうことなのかもしれない。彼らは私たちと接触することで笑顔を失う。モノを得る代わりに笑顔を失う。彼らの集落はどんなに小さくても一つの国なのだ。そうした国が滅んだり、なくなったり、変わってしまうということは、私たちが持つ豊かさを失うことなのだ」

豊かさというのはモノではなく多様性という信念が滲み出ているコメントだ。


最も印象的だったのは政府視察団がワトリキを訪れた際のエピソードだ。
最近のブラジルでは保護区撤廃の議論が盛んだという。そうした世論に対してダビ・コペナウは昔ながらの自給自足の生活をしている「森の番人」であるところのヤノマミ――ワトリキの姿をみせて、保護区はこのままにしておくべきだということを政府のお偉方に納得させる必要があった。だが、いくら政府の許可を得ているからといって、文明人であるところの取材人がワトリキにいては印象が悪い。ビニール袋やボロボロのTシャツといった「文明の品」が隠されると共に、取材陣たちもFUNASAの保健所の小部屋に押し込められることとなった。

彼らはセスナに向かって叫んでいるようだった。
彼らは<コブフル!(出ていけ!)>と叫んでいた。
それは、「見世物」になったことへの怒りのようだった。「文明」に関心を寄せる若者たちが、踊りを踊らされたことに怒っていた。畑を耕すフリをしなければならなかったことに怒っていた。一人の若者が、僕たちに向かって、「お前たちを隠すなんて許せない」と言った。申し訳ない、すまなかったと言っているようだった。
だが、彼らの言葉に、僕は力なく笑うしかなかった。


ヤノマミ族はよくアハフーと笑う。狩りで獲物を採ってはアハフー。祭りで踊ってはアハフー。女は面倒、女はこりごりと言ってはアハフー。白蟻の巣(例の嬰児を埋めた巣だ)はすごく遠いよアハフー。妊娠した女性に「いつ頃生まれるの?」と聞いた際も、アハフーと笑って去っていったという。
だがこの時、取材陣は初めて「アハフー」の精神を理解したんじゃなかろうか。



NHK-DVD ヤノマミ~奥アマゾン 原初の森に生きる~[劇場版]
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ただ、本書を読んで驚いたのは、上記のような文明と原始社会のコンフリクトに関するエピソードを、DVDの方では全く採用してないんだよね。これだけ材料があれば、文明と接触して変質しつつある原始狩猟社会というテーマで良質なドキュメンタリーを作れた筈なのに、そうしていない。
それはやはり、ヤノマミ族の生と死に関する価値観や生命観をテーマとした方が、彼らが実際目の当たりにして受けた衝撃を表現するのに相応しいと考えたからだろう。その割り切りが凄いと思ったのだが、取材陣が受けた衝撃はそれほど大きなものだったということが、本書にもしっかりと描かれている。

一瞬嫌な予感がしたが、すぐにそれは現実となった。暗い顔をしたローリは子供の背中に右足を乗せ、両手で首を絞め始めた。とっさに目を背けてしまった。すると、僕の仕草を見て、遠巻きに囲んでいた二十人ほどの女たちが笑い出した。女たちからすると、僕の仕草は異質なものだったのだ。失笑のような笑いだった。僕はその場を穢してしまったのだと思った。僕のせいで、笑いなど起きるはずのない空間に笑いを起こしてしまった。僕は意を決してローリの方に振り返った。視界に菅井カメラマンが入った。物凄い形相で撮影を続けていた。
(中略)
たぶん、僕はローリだけを見ていたのだと思う。彼女は表情を殆ど変えなかった。憔悴しきっていたのかもしれない。暗い瞳を子どもの方に向けながら子どもを締め続けていた。時おり、女たちがローリの方を指さして何やら言った。小さな子どもたちも集まって来て、親の影に隠れるようにして、ローリの行為をずっと見つめていた。
その時、ローリの周りには二十人以上の女たちが集まっていた。女の子どもたちもいた。これも儀式なのかもしれないと思った。みんなで送る儀式。精霊のまま天に返し、みんなで見届ける儀式。なぜその子は天に返され、自分は人間として迎え入れられたのか、それぞれが自問する儀式。女だけが背負わなければならない業のようなものを女だけで共有する儀式……。

誤解のないように言っておきたいのだが、ヤノマミの女たちは何の感情もなしに子どもを天に送っているのではない。僕たちは、天に送った子どもたちを思って、女たちが一人の夜に泣くことを知っている。夢を見たと言っては泣き、声を聞いたと言っては泣き、陣痛を思い出したと言っては泣くのだ。ヤノマミのルール(掟というより習慣・風習に近い)では死者のことは忘れねばならないのに、女たちは忘れられないのだ。


「あの場面」を目撃したショックからか、帰国後、著者である国分ディレクターは夜尿症になり、菅井カメラマンは子どもに手をかける夢を見るようになった。
また、現在ブラジルでは2014年のサッカーW杯と2016年のリオデジャネイロ五輪を控えて、インフラ整備や開発と共に先住民保護区の撤廃論議が盛んだという。