奴隷の青春:「遭難フリーター」

 嫁が実家に帰ったので、以前から気になっていた「遭難フリーター」を観てきた。面白かった。


 この面白さは科学者が顕微鏡を覗いて「実に面白い」と呟くようなそれではなく、私や、私の友人や、私の子供達が同じような状況に至ることに思いを巡らせてしまうような、当事者意識を強烈に突きつけてくる面白さだ。
 全編市販のビデオ撮影、制作費3万円、編集期間2ヶ月のセルフドキュメンタリーという事前情報を聞いて、学生の課題みたいなものを観せられたらかなわんなーなんて思ってたのだが、そのような不安は杞憂だった。この映画、結構良く出来ている。特に編集と校正は小賢しいと思える所すらある程で、初監督作とは思えないくらいだ。プロデューサーとして土屋豊、アドバイザーとして雨宮処凛の名前が入っているが、監督以外の関与*1も意外に大きいのかもしれない。


 どういうところが面白いのかというと、まず岩淵弘樹自身の派遣労働者としてのリアルライフの実際だ。
 寝癖が爆発した頭で納豆ご飯をかっこみ、ゴミだらけの寮で寝起きする。ハケンとして働くキャノンの工場では昼飯のゴミすら持ち帰らされ、プリンターのインクにフタをつけるというスキルにもキャリアにも繋がらない仕事を漫然とこなす。少しでも稼ごうと土日に東京での日雇い仕事を入れるも、寮のある本庄市に帰る余裕が無いので深夜の東京を徘徊する。面白い。ただ、それは「ハケン」とか「ワーキングプア」とかいった言葉から予想される面白さでもある。
 レコード会社に就職した大学の同期に「努力が足りないよ」と説教されたりする。フリーターの権利を求めるデモに参加するも、こんなデモ行進しても世の中は何も変わらないのではないかと自問自答したりする。居酒屋(多分、ロフトプラスワン)でいかにも団塊っぽいおっさんに「お前達は企業の奴隷なんだ(何故会社と闘わないんだ?)」と説教され、「そんなこと言われると一生フリーターでいってやろうと思いますよ」と逆ギレしたりする。それらも、まぁ、ある程度は予想される面白さだ。


 この映画独自の面白さ、それはセルフドキュメンタリーとしての面白さだ。監督の岩淵弘樹は学生時代に雨宮処凛に誘われ、"人間の盾"としてイラク渡航した経験がある。その時の縁で「現役派遣労働者」としてロフトプラスワンで壇上に上がって喋ったり、NHK関西テレビの取材に応えたりしているのだが、ある時からビデオカメラを持って取材し返すんだよね。派遣労働者のドキュメンタリーを作ろうとするNHKのディレクターに逆取材して動揺する過程をカメラに収めたり、モザイクで顔を消され「顔の無い被害者」と化した番組内の自分の映像を引用したりする。一種の意趣返しだ。全然ネット関係ないけど、ネット世代の闘い方だ。この過程が実に面白かった。


 これは私の見立てなのだけれど、派遣労働者が大企業に搾取されるのと同じように、彼らを題材にしたドキュメンタリーの製作者も、素材を求める過程で、搾取しているわけだ。ここで連想するのは 「ぼくたちの洗脳社会」で語られた、お互いがお互いの価値観で支配しあう、洗脳社会だ。派遣労働者を使うことで最大限の利益を得ようとする企業の価値観*2派遣労働者を単純に社会の被害者と位置づける物語を見出す価値観。その二つに代表される、既存の物語に回収されまいともがく現状認識の旅、それがこの映画なのだろう。
ぼくたちの洗脳社会 (朝日文庫)
岡田 斗司夫
4022612444


 私もこの洗脳社会の一員なので、私の見立てを続けよう。
 つまりこの映画は、同じく日研総業に在籍していた加藤智大がナイフとレンタルトラックを使って無意識的にやったことを、ビデオカメラと言論で意識的にやろうとした映画なんじゃないのだろうか。自分はここにいて、自分にはこういう風に世の中が見えていて、自分はこういうことを叫びたいということを皆知ってくれ、というような。
 そういう見立てが私にとって痛快だということなのだけれども、「こういう状況を選んでしまった自分にも責任の一端はある」と自己責任論を一部認めたり、「自分は努力しているのか」と努力の足りなさに言及したりするのも、そうしなければ「自分」とか「自分オリジナルの物語(を求めるさま)」というものが雲散霧消してしまう……とはいかないまでも、既存の価値観に対抗しえる力を持てなくなるからだろう。強さとは抱えているものの重さ、責任なのだな。
 言い換えると、オリジナルなものが「(狭義の)自分」しかないってのは、若者だ。青春だ。この映画は、青春のうたなのだ。


 引っかかったのは、高円寺から平和島まで、海を目指して夜を徹して歩くシークエンスがこの映画のクライマックスとして用意されている点だ。この映画、前述の通り、編集や構成は良くできている(一方で音楽の使い方はセンス悪いと思う)。量販店に売っているようなビデオカメラで撮影しているにも関わらず、それでも映画的にクオリティの高いものを目指そうとして作った気構えが感じ取れる。だから、状況や人物を分かりやすく説明する導入部、あの手この手でテーマにつてい観客に思考を巡らせる中盤部に続いて、映画的に盛り上がれるクライマックスを用意したかったのは分かる。でも、安易に感じてしまうんだよね。
 この映画は実在の人物、それも作り手自身が語り手として登場するセルフドキュメンタリーなので、普通に考えれば過去の自分から現在の自分に続くさまを映像として記録したもの、と定義できると思う。であるならば、このシークエンスに当てはまるのは自分独自の物語と表現方法を求めて、この映画を編集する岩淵弘樹自身の姿が写しだされなくてはならない。でも、それをそのままの映像としてやってしまうのは、あまりにもクサいし、あざとい。だから、隠喩となる何かに置き換えたい。そこまでは分かる。
 でも、それが「夜に町を長時間歩く」ってのは、やっぱり安易だなと思ってしまう。24時間テレビのマラソンを例に挙げるまでもなく、ただ長距離を歩いたり走ったりするだけで、人間は理由も無く感動してしまうからだ。


 でもでも、自分の状況を映像で表現しようと思い立った時に、金銭的にも発想的にもそういう方法しかとりえなかったところに、派遣労働者ワーキングプアと呼ばれる人たちが置かれた環境の貧しさがあるのかもしれない……などと考えると益々やりきれなくなるので、この辺で終わり。


 そうそう、監督が書いた同名の本も面白いです。
遭難フリーター
真鍋 昌平
4778311620

*1:全ての映画がそうなのだが

*2:岩淵が派遣社員として働くキャノンの御手洗会長は経団連の会長でもある